ご挨拶
皆様こんにちは。
アンティークコインのショールーム、コインパレスの室田でございます。
私自身のロンドン滞在中の体験を元に、英国社会に華を添える芳しい紅茶を取り巻く幾つかの物語をご紹介させていただくコラム、「英国紅茶の万華鏡」。
本日は、第3話「英国の懐の深さを感じさせる紅茶体験」をお届けさせていただきます。
どうぞ最後までご一読ください。
前回のお話はこちら
第3話「英国の懐の深さを感じさせる紅茶体験」
ロンドンの中心に位置し、世界各地からこの大都市を夢見てはるばるとやって来た観光客を魅了して止まない市内最大の観光スポットとして知られるコヴェントガーデン。
地下鉄コヴェントガーデン駅の改札を出ますとすぐに大勢の人だかりが目に入りますが、皆一様に反対側から改札口の辺りを見つめている様子です。
しかし、彼らが何のためにそこにいるのかを理解するのには1分とかからないことでしょう。
どうやらそこは待ち合わせ場所として人気があるようで、コヴェントガーデンならではの居心地の良さを求めて世界中から集まって来た恋人たちを引き合わせては、周辺のカフェやレストランへと通じるエントランスの役割を果たしているということが分かります。
今でこそ街全体が巨大なショッピングモールさながらの賑わいを見せるコヴェントガーデンですが、これ迄この街はロンドンの歴史とともに紆余曲折を辿ってきました。
今も街の中心に存在し、一大ショッピングアーケードとして再利用されている屋根付きの古びたマーケットは、1970年代後半までは青果市場として用いられていた正真正銘の「マーケット」でした。
その当時のマーケット周辺の道路は運搬用の大型トラックで埋め尽くされ、青果や生花を扱う店舗が軒を連ねていました。
この今となっては懐かしくもあるコヴェントガーデンならではののどかな風景は、1972年公開のアルフレッド・ヒッチコック監督のサスペンス映画「フレンジー」の冒頭部分にて見事に描写されています。
世界有数の大都市ロンドンの中心にありながらも、あたかも郊外の田園地帯にいるかのように微かな花の香りがそこここに漂う当時のコヴェントガーデンを懐かしむ年配の英国人は今も多いと言われていますが、現在も現役で活躍する時代がかったマーケットの軒先に吊り下げられた花籠から滴り落ちる朝靄の雫のみが、このショッピングアーケードが青物市場であった時代の名残りを今に伝えているに過ぎません。
そして全体が劇場空間さながらの様相を見せるこの街は、1964年に封切られた映画「マイフェアレディ―」の舞台であったことでも世界的に知られています。
マーケットの裏に今も佇む17世紀創建の聖ポール教会は、名女優オードリー・ヘップバーン演じる主人公の花売り娘イライザが、英国屈指の舞台俳優レックス・ハリソン扮する言語学者のヒギンズ教授との運命の出会いを果たす場所として描かれています。
石屋根で覆われたマーケット中央のカフェでは、憩いのひと時をゆったりと過ごすロンドン市民や観光客の姿が見られ、周囲の石畳の上で日ごとに繰り広げられるストリートパフォーマンスに興じて時折沸き起こる歓声との好対照を成しています。
今日、私がこの街にやって来たのは、ショッピングや散策のためでもなければ、青物市場だった時代のコヴェントガーデンを偲んで、その面影を観光客で埋め尽くされた現在のマーケットに求めるためでもありません。
駅を出て大勢の観光客の流れに沿って右に進みますと、その先にあるのがマーケットですが、その左側にマーケットを囲むようにして佇んでいる建築群こそは、英国における本格的なオペラとバレエの会場として世界的に認知されているロイヤルオペラハウスであり、地下鉄駅側からはその裏側が見えているに過ぎません。
今日は来年1月から4月にかけて上演されるオペラ公演の一斉チケット発売日ということで、早起きして自宅からこのコヴェントガーデンまで徒歩でやってきました。
来年4月に予定されている注目のオペラ公演「仮面舞踏会」は僅か4公演のみの上演であり、イタリアを代表する世界的オペラ歌手、ルチアーノ・パヴァロッティの出演も既に決定していますので、チケット入手は困難を極めることが予想されるため早朝から並ぶ必要を感じてのコヴェントガーデン入りでした。
マーケット側の裏口から列に並ぶことになりますが、朝7時半に到着した時点でどうやら20人余りが既に並んでいるようでした。
チケットの発売開始時間は午前10時ちょうどですので、それ迄まだ2時間半もあります。
列に並んでいる人たちを観察することは、英国社会を垣間覗き見るように興味深いことであり、延々と隣の人と世間話をする人や、ペンを片手にクロスワードに集中する人、あるいは前後の人に場所を取っておいてもらってトイレに行くと告げた後、長時間列に戻ってこない人など、多種多様な面々と共に数時間を過ごすことになります。
12月初旬の早朝のロンドンは底冷えのする寒さで、1時間も列に並んでいますと凍るような冷気が体全体に浸透してくるような気がします。
列に並び始めて約40分ほど経過した時、列の前方で何かが始まったように騒めいていることに気付きました。
制服を着た、恐らくはオペラハウスのスタッフと思しき一人の男性がカートを押して列の一人一人に何かを配っているようでした。
見る見るうちにこちらに向かってくる男性が配っていたのはペーパーカップに淹れられた熱い紅茶で、オペラハウスがチケット発売日のみに早朝から列に並ぶ人々を労ってサービスするものであることが少したってから判明しました。
冷え切ったコヴェントガーデンの石畳での早朝の数時間は確かに苦行ではありますが、このように善意で配られる一杯の紅茶との遭遇は余りにも想定外の出来事であったため、ささやかながらも気の利いた英国らしいアイデアに身も心も温まる思いがしたものです。
紅茶自体はノーブランドのごく普通の物でしたが、チケット発売日の長蛇の列に並んだ他の人々もご満悦の様子で、列には終始和やかな空気が流れていました。
特権階級を象徴するオペラハウスと庶民階級を代表するマーケットの双方が混在する街コヴェントガーデンにて、その不思議な接点を天から降って来たような一杯の紅茶に見出すことになろうとは夢にも思っていませんでした。
英国人にとってコヴェントガーデンの名が意味するものは常に本格的なオペラやバレエを鑑賞する格式の高い空間のことであり、決して観光客が大勢いる裏のマーケットや他のミュージカル劇場を意味するものではないようです。
実際に、18世紀の作曲家ゲオルク・フリードリッヒ・ヘンデルが活躍した時代から今日まで、常に英国社会における最高のオペラ消費地であり続けたコヴェントガーデンですが、今日、マーケット側から少しだけ見えるオペラハウスの建物は何となく隅に追いやられてみすぼらしく感じられるのも確かです。
過去数百年間にわたって両者は適度な距離を保ちつつ、共存を果たして来たと言われています。
しかし、オペラ上演日の夕方になりますとその状況は一変し、裏のマーケットでの昼間の喧噪が嘘であったかのように、オペラハウスの正面玄関には年代物のロールスロイスやベントレーが列を成し、豪華なディナージャケットやイブニングドレスで着飾った人々を夢の世界へと送り出す光景が繰り広げられます。
階級を超えて万人に愛される多彩な顔を持つその時間帯までのコヴェントガーデンがまるで幻影であったかのように消え去り、代わって大英帝国の栄光を取り戻すべく英国が従来の威厳を誇示する時が訪れを告げます。
21世紀の今もロンドンの中心部にて咲き誇り、相変わらず過去と現在が混在するこの愛すべき街がこのままの姿で永遠に残されて行くことをただただ願わずにはいられません。
そして英国が地上に存在する限り、大英帝国の光彩を放つこの風変わりでありながらもかけがえのない市中の山居が、世紀を超えてここを訪れる人々に愛され続けて行くことは間違いないでしょう。
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