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THE THIRD LEGEND
第1弾にクイーン 、そして第2弾にエルトン・ジョンを取り挙げて話題騒然となったロイヤルミントによる「ミュージック・レジェンド・シリーズ」。待ちに待った第3弾は英国出身の偉大なるミュージシャンにして俳優のデヴィッド・ボウイとその華麗なる人生にスポットを当てます。
長いキャリアを通じ一貫して主張し続けた自己のプレゼンテーション能力は、他の追随を許さない独自の境地でした。若き日のボウイの新鮮な魅力を伝えるこのデザインは、稀代の才人に対する母国英国の心からのオマージュです。
子供のころから音楽好きの父親の影響で主にアメリカのポピュラー・ロックに親しみを持っていたデヴィッドは、15歳の時に彼にとって最初のバンドを結成します。
1967年にはデビューアルバム「デヴィッド・ボウイ」を発表します。アルバム制作時にチベット仏教に傾倒し、チベット難民救済活動を推進する「チベット・ソサエティー」に参加します。同年に初の映画出演が決定し、その撮影時にアバンギャルドなパントマイム・アーティスト、リンゼイ・ケンプと出会い彼の薫陶を受けます。その教えの元で学んだイタリアの芸術「コメディア・デッラルテ」は後に彼の舞台制作に多大なる影響を与えます。あらゆる文化・芸術を消化し、自己のペルソナ(外面的側面)を削ぎ落し、あらゆる角度から自己変革を試みた稀代のミュージシャンであったボウイは、そのストイックなまでのプロフェッショナリズムと有り余る美意識によって、音楽家としてのみならずマルチ・アーティストとして世界にその名を深く刻み込みます。
常に「今を生きるアーティスト」であろうとしたボウイは、数々のヒット曲に恵まれながらもそれに固執しようとせず、常に新しいスタイルを模索し続けていました。
実際に1970年代のボウイは、その時代の実験的なアプローチを導入し、独自の音楽を生み出すカリスマ性が際立っていました。このころの彼の舞台は大規模な舞台とインパクトの強い音楽が特徴で、奇抜で派手な舞台衣装とヘアメイクは彼の個性を強く印象付けていました。ほとんどのミュージシャンは、その時点までに確立した独自のスタイルを貫こうとし、ファンもそれを望むことは一般的ですが、ボウイの場合はスタイルを大胆に変化させることによって世界を魅了し、自身の境地を切り開いてきたと言えます。
ボウイは東西文明を融合させるために自身の創造性を昇華させ、ロック・ミュージシャン、時に俳優としてその全人生を賭けて奔走していました。
デザイナー
ジョディ・クラーク
デヴィッド・ボウイの勇敢で独自のビジョンは、今日でも感じられ、聞かれることがあり、彼をイギリス音楽界で最も持続的なアイコンの一人に変えました。
その類稀なる才能ゆえに、失敗を恐れず運命に果敢にぶつかっていくタイプの芸術家であった生前のデヴィッド・ボウイ。その功績は今なお世界のミュージックシーンに影響を与え続けています。
世界を代表するブリティッシュロックのミュージシャンやシンガーソングライターの旗手として、また20世紀後半から21世紀初頭にかけての英国映画を代表する俳優として銀幕を彩るなど、その活動は実に多岐に渡っていました。
1967年6月には初のアルバムとなる「デヴィッド・ボウイ」を発表し、生涯初のミュージシャンとしての成功を噛みしめます。
イギリス音楽界の最も持続的なアイコンの一人であるデヴィッド・ボウイは、勇敢で独創的なビジョナリーとしての影響力が、全世界に衝撃を与え、今日でもその影響力が感じられます。ここでは、彼の半世紀以上にわたる顕著な遺産とキャリアを振り返ります。
ソロアーティストとしての活動は成功せず、ボウイは音楽活動から一時的に離れることになりました。仏教の修行所で過ごした後、1968年には一時的なマイム劇団であるFeathersを結成しました。パフォーマンスアートの学生であり、後にステージでそのスキルを活かすことになります。1969年7月のアポロ11号の打ち上げの5日前、彼のブレイクスルーシングル「Space Oddity」がイギリスでリリースされ、イギリスのチャートで5位にランクインしました。
半世紀にわたって創造されたボウイの作品は、数百万人をインスパイアし、その中には彼の作品をたった今知る若い世代のミュージシャンも含まれます。英国のコインで称賛される最新の音楽レジェンドの一人として、彼の地位は今後もイギリスの音楽レジェンドの中で確固たるものとなるでしょう。