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英国の無限の発展と共に歩まれたエリザベス2世の70年間に渡る足跡

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2022年9月8日のエリザベス2世の崩御は、生前の偉大なる功績ゆえにイギリス連合王国並びに連邦各国に限りない喪失感をもたらし、いまや世界全体が悲嘆に暮れていると言っても過言では無い程です。

英国王室最長の在位記録を誇るその70年7か月の治世下に、英国は文字通り激動の時代を駆け抜けました。

英国を象徴する君主として女王が果たしたかけがえのない役割は、20世紀後半以降の世界における英国の立ち位置をより明確にし、歴史上英国が最も世界的な脚光を浴びた一時代として永遠に記憶されることでしょう。

英国王ジョージ6世の第1王女として女王が誕生した1920年代は、英国が未だ大英帝国時代の恩恵に浴し、世界に対する優位と特権を我がものとしていた頃でした。

即位後初の首相として女王を補佐し、その死に対して国葬の栄誉を賜った名宰相サー・ウィンストン・チャーチルは、幼少期の女王と接した際に受けた印象をこう語っていました。

「まだ子供ながらも、非常に威厳のある方である」と感慨深く語っていたチャーチルは、その後、1953年の女王の戴冠式の際には政府の代表として重要な任を果たすことになります。

若年にして父王の公務の代行を務め、王室の代表としての責務を十全に果たしていた王女時代の女王でしたが、その気品あふれる姿は周囲の人々を感動させたばかりか、父ジョージ6世もまた大変誇りに思っていたと伝えられています。

1947年、女王は連邦諸国に向けて人生初の公開放送を行い、その後、自身が一生涯を賭けて果たすことになる神聖な誓いを立てます。

「私は、たとえ我が人生が長くとも短くとも、我々が属するこの偉大なる国家のために全生涯を捧げます」と力強く宣言した女王はその時21歳でした。

同年には初恋の人フィリップ・マウントバッテンとの恋愛を成就し、世紀の大婚の実現によって英国民に深い感動をもたらします。

しかし、その後の平穏で幸せな新婚生活はそう長くは続きませんでした。

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1952年2月6日は女王にとって生涯忘れ得ぬ一日となったことでしょう。

夫フィリップとともにジョージ6世の名代としてケニアを公式訪問中であった女王でしたが、遠く離れたイングランドのウィンザー城で父王がひっそりと息を引き取った瞬間に、自身が英国の女王となっていたことに全く気付かぬまま、異国の地ケニアにて夜明けを迎えます。

当初の予定であったオーストラリアとニュージーランドの訪問は中止となり、急遽慌ただしく帰国の途に就くことを余儀なくされたエリザベスでした。

そして到着したヒースロー空港にはチャーチル首相を始めとする政府関係者が集まり、多くの国民が新女王を出迎え、新しい英国の顔となった君主の一挙手一投足に釘付けになりました。

「我々の新しい国王は何と若々しく聡明で美しい方なのだろうか」と一様に感嘆の声が漏れたのも無理はありません。

この時、新女王は25歳で、かつての大英帝国の後裔である巨大な連合王国を継承する国王として君臨するにはまだまだ経験不足と思われていたからです。

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しかし、祖母のメアリー王妃譲りの強靭な性格に加えて類まれなる柔軟性、そして何よりも驚異的な健康に恵まれていた女王は、その後、持ち前の資質を活かして縦横無尽の活躍を展開します。

世界各地において絶賛され、国家の威信を賭けて遂行した無数の海外公務の傍ら、女王は英国内においても数限りない慈善活動を展開され、王室の権威の高揚に努めます。

栄典の授与は元より、イングランド国教会の首長としての数々の儀式への参列、また連合王国の構成員であるスコットランド、アイルランド、ウェールズ三国の政治と宗教に関する公務等、寸暇を惜しんで自身の責務を遂行されたことは万人の知る通りです。

しかし、英国史のみならず世界史上に名を刻むエリザベス2世の不滅の伝説は海外訪問と公務のみによって打ち建てられたものではありませんでした。

限りなく立憲君主制を尊重し、意識的に政治的発言を避けつつ、政治との適度な距離を保ち、過去に英国が果たした歴史的功績を尊重しながら未来に向けて王室の尊厳を最大限発信する女王ならではの統治手腕は広く世界の共感を呼び、女王自身の栄誉として評価されるのみならず、王室への敬意を生むことに著しい貢献を果たしました。

世界史上において、女王が即位するまでの英国を取り巻く関連諸国の英国に対する感情は極めて複雑なものであったと言えます。

植民地主義を標榜する大英帝国時代の英国に追随することを強いられていた連邦各国や、かつての植民地諸国が統治者としての英国王室に不満を抱いていたとしても不思議では無かったことでしょう。

また、この問題を解決せずして20世紀後半以後の英国の未曾有の発展は実現し得なかった事と思われます。

この問題の抜本的な改革こそが、1952年の即位以降、エリザベス2世が公務を通じて実現した最大の成果であったことは衆目の一致するところです。

行動によって規範を示す英国女王の真摯な姿に世界が深く感動したのも無理のないことです。

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それ迄はカーテンの向こう側の存在として、一般庶民が目にすることのなかった英国の王族の生活を、可能な限り視覚化することに努めたこともまた、女王自身が率先して取り組んだ新たな改革であったかもしれません。

それは1953年に挙行された女王の治世の始まりを告げる重要な儀式として知られる世紀の戴冠式に際しても顕著でした。

女王自身の個人的な希望が考慮された結果、史上初となった戴冠式のテレビ中継が許可されるに至りました。

数百年にわたって培われた英国王室の威光を湛えた伝統美は、この時、史上初めて惜しげもなく世界に披露されました。

また3男1女に恵まれた女王夫妻が育まれたごく普通の家庭生活は、英国人によっての永遠の理想像とみなされ、英国を象徴する要素の一つとして定着しますが、女王はこれを最大限アピールすることにおいてもやぶさかではありませんでした。

女王が過去70年以上もの歳月をかけて純粋培養し、君主として、また一人の人間として世界に発信し続けたイメージは、王室の印象を飛躍的に向上させることにとどまらず、最終的には女王自身の権威を高めることにも繋がったと言えます。

これは、観衆あっての評価の対象としての主役であるということを根本的に熟知していた女王ならではの意識の高さを物語っています。

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英国君主エリザベス2世の我が国日本への待望の公式訪問は1975年の5月に実現しましたが、その時も英国女王としての立場を弁えた自らのプレゼンテーションによって日本国民を魅了し、今もなお数々のエピソードと共に日英両国の友好関係を彩る伝説として語り継がれています。

来日時に東京都内で行われることになった訪日歓迎パレードに際して、日本政府によって提示された保安上の条件に対し、女王はオープンカーでの走行を強く希望したとの記録が残っています。

万が一の暗殺やテロ行為を危惧しての日本政府の見解であったと思われますが、それに対し女王は「そうなればそれはその時のこと」と意に介さず断行され、喝采とともに受け入れられ大成功に終わりました。

この一件は、生前の女王の英国の君主としてのプライドと公務に対する確固たるプロフェッショナリズム、そして何よりも日本国民に対する誠実さと真心を伝える逸話として我々の記憶に深く刻まれています。

過去70年間にわたるその長大なる治世の果てに、遂に天寿を全うされた女王陛下。

今後、人間性豊かな圧倒的存在感によって常に世界に対峙した女王の全生涯が一つの物語となり、改めてその治世全体が現代英国史の忘れ得ぬ記録として脚光を浴びることでしょう。

世界はこの度の女王の崩御に際し、第2次世界大戦から戦後の奇跡的復興、そして再び世界を代表する大国としての地位を取り戻した英国の限りなき繁栄を見届けたエリザベス2世の70年間にわたる治世を回顧する貴重な機会を得たように思えます。

英国君主エリザベス2世の栄光の治世に最大級の讃辞を捧げると共に、一人の人間として生きたこの偉大なる女性に対し、心からの謝意を表したいとの思いを抱かずにはいられません。